振り返り、JSH2022、人に優しく自分に厳しく。

1週間前、僕は九州は博多にいた。今の時間はちょうど教授と同期と居酒屋で焼き鳥を食べていた。

JSH2022、いわゆる日血。今年は九州大学の赤司先生が会長で、福岡でハイブリッドでの開催となった。僕は1日目にポスター、3日目にoralで発表してきた。久しぶりの現地開催で参加できたのでレポート的なものを書いてみる。

1日目

朝の5時に出発、暗い中最寄りの駅まで歩いた。家族3人で。

学会参加の間、奥さんと娘が愛知県の実家に帰ることになり、出発を一緒にしたのだ。お父さんは学会へ、お母さんは実家へ。

そして新幹線で博多へ。せっかくなので同期と一緒に仲良く乗った。ここで、ハプニング。同期の分も新幹線のチケットをとったのだが、事前に僕だけ発券したと思っていたら、実は同期の分も発券されており、同期が博多駅の駅員さんにバチバチにキレ倒した後にそれに気がついた、という話。思い込みは怖いなと改めて実感。普通に許してくれた同期にも感謝。

そんなこんなで到着。

この学会での一つのテーマは機械学習だった。自分が少し勉強していて、その未来性を確信している手法がどのくらい今の日本の血液内科に浸透しているのかを実感することをテーマとした。演題でAIやmachine lerningでヒットしたのは5件程度だけであった。

1日目の午前中に2つの機械学習を使った演題があった。

ひとつはM2マクロファージを認識するために使ったもの、もうひとつはCML細胞をFCMで判定するものであった。どちらも画像認識をうまく使ったものであった。

あとベネトクラックスの血中濃度の発表も見た。中等度阻害のものを使った場合、100mgにしても濃度は高くなってそうだった。VEN+AZAに関しては色々話題があった。なんなら今回はVENだけでセッションが立つくらいだった。みんなが待っていたんだろう。よく言われるけどAMLって薬がなかったから効いたらならケモ→移植、ケモの内容はアントラサイクリン系+中当量キロサイド、ダメならMECやFLAGMなどETP足すか、大量キロサイド、それでもダメなら非寛解移植って感じでまさに修羅、ケモ地獄の血液内科だった。でもVEN+AZAが出てからは治癒目指す人にはマイルドな選択肢が増え、さらに移植ができないような高齢者にマイルドな治療ができるっていうのが本当に救われた感がある。患者もそうだが僕ら血液内科も救われたのかなと思う。治る可能性が低い人への強めケモはやっぱりしんどい。病棟スタッフ含めてみんなが疲弊してしまう。そんな心理があってか大流行りだったのだろう。

ランチョンはAMLのMRDを見た。考えればMMみたいにFCMで出来そうだ。AMLは再発時にクローンが変わるのが多いのがネックかと思ったら80-90%は検出できるみたいで、有用そうだった。

その後は会長公演とワイズマンというダンブルドアみたいな人の話を聞いた。白血病が分化後の細胞からではなく、幹細胞が出自だという概念には驚いた。それもあって分化の話は結構熱いのかと納得した。

午後にも一つ機械学習の発表があった。scRNAseqから機械学習でその段階の細胞集団が揺らいでいるかどうかを検出できる技術を使ったものだった。分化って奥が深い。

あと、biobank japanのデータを使ったgerm line と関連があるリンパ腫についての解析の発表も見た。こっそりテーマと思っている分野でまたじっくり考えてみたいと思った。

最後にポスターで発表した。発表したというかポスターの前に立っていただけ。Facebookにあげる用の写真を撮りに来た教授と、隣のポスターの人、昔我々の研究室でPhDを取って今は製薬会社で働いている人が話しかけてくれた。そして終了後にMRさんが数名話しかけてきた。コロナ禍で全く会っていないMRさんが僕のことを認識していて、話しかけてくれるのはすごい。どんな訓練を受けているのだろう。

夜は昔市中病院にいた時のボス、その同期、そして僕の同期の4人で居酒屋に行った。居酒屋で喋りながら飲むのが久しぶりで楽しかったし、やっぱり料理が美味しかった。

ボスの同期は製薬会社で働いていて、企業としての人の成長させ方の話は面白かった。というか、病院の医者はやっぱり教育や経営についての系統だった教育がなされていないので他の業種では当たり前ができていないのだろうな、というのを痛感した。ショックでもあった。知らないのって損やし搾取されているのではないかと思う。

あと、大学院2年目の時に辛かった話を聞いてくれて、それって自分がしょうもないミスをしている自分を許されへんから辛かったのではないか、というボスの考察が(ボスもそうだったみたい)とても自分の中にすっと入ってきて、なんだか気持ちが軽くなった気がした。

ちなみにコングレスバックは奥さんに色を聞いて、返信来るまで何個かのセッション聞いて、言われた色を取りにいったらなくなっていた。紺と水色のどちらかというチョイスだった。意外と他の血液内科の先生はセンスがあるのかと思った。そして奥さんもすごいなと思った。

ちょっと長くなり始めたのでここで区切る。

アスペルガーは不便だ、世の中は便利になっているけど。そんなアスペルガーはいいものだ。便利だけが全てじゃない。

長いタイトルは熱い小説を読んだから。

物語は空気が読めない、普通がわからないアスペの高校生、田井中とロリコンであることを隠して生きている教師、二木先生の話。

この高校生の、他人と違う感性があることへの妙プライド、変に他人を意識してしまう過剰な自意識、文字に色がついて見えるちゃんとした自閉症感、過集中の癖、とても共感ができてしまう。作者はおそらくちゃんとしたアスペルガーか、とても勉強したかのどちらかであろう。それかどちらもか。

僕はどうやら軽度のアスペらしい。そしておそらくADHDもある。行間は全く読めないし、いわゆる言葉通りしかなかなか意味がとらえられない。不注意が半端ない。ただし、世間一般のイメージにある他人に興味がないあのアスペなわけではない。自分で言うのは恥ずかしいが、僕はとても人間味がありいい感じである。

ここでいういい感じの人感は、うまく自分を乗りこなしている感といった方がいいかもしれない。人からのいい感じの像ではなく、自分から見てのいい感じの像である。陰キャではある。しかしこのいい感じの人感はここ10年ちょっとでやっと身につけることができたように思う。それより前はこの田井中のように変に尖っていて、変に自意識過剰で自意識に雁字搦めだったと思う。周りとは違う気がするが、何かすごいわけではない。一方ですごくなるための努力はしていない。というか何をしたらいいかわからない。とりあえずそれなりに勉強はしていたが、大学受験では浪人した。本当にそれなりであったようだ。浪人生の一年は結構がんばって勉強したように思う。医学部に入れた。それまであった何者かになりたいと焦りがなくなっていった気がする。

大学入ったあたりからは医学部に入れたという自信も持てたからか、周りを見る余裕ができたからか、自分に何ができて、何ができなくて、社会的にはどのような立ち位置になれそうなのか、そして自分は何がしたいのか、というのが徐々にわかり始めた。そしてそれなりにうまく立ち振る舞えるようになった。立ち振る舞うと言うと他人に対してみたいにであるが、実際は自分に対してだ。自分に対して納得ができるような行動ができるようになった。それまでの何かにはなりたいが、何にもなれていない、でも何になりたいかわからないので何をしたらいいかわからない、というモラトリアムの悩みが徐々に薄れていった。これが思春期から青年期への成長なのだろう。

そんな成長をした僕からすると、田井中の苦しい感じ、顔が赤くなる感じがなんとも懐かしく、その後の成長を予感させるフラグがとても胸が熱くなる。

作中で高校生の田井中は偶然、美術の先生である二木先生がちゃんとしたロリコンであることを知る。しかもロリ専門のエロ漫画家であることも知る。最初は先生が書いている雑誌を万引きして読んでいたのだが、その万引きがバレて身元引き取り人として二木先生を指名するところから話は動き出す。

田井中は先生がロリコンである証拠があると脅し、先生に何か要求をしようとする。しかしうまく要求が思いつかない。先生は田井中が普通とは違うことに誇りを持っている反面、それを重荷に思っているという田井中の矛盾を煽り、何か特別なものがあるのかと問いただす。この指摘がかなり的確で、田井中をうまく説明できている。なんなら僕を説明されてようでこそばゆかった。

田井中は実は物語を考えることが好きで、勢いから短編小説を書き上げる。この書き上げるときの過集中感がまさにアスペである。漫画家ということもあってか、先生は作品を作るということについて理解が深く、その小説を添削し、直してこいという。書いている最中に田井中はこれが自分がやりたかったことかもしれないという予感を持つが、先生にとって自分が小説を書くその時間は、自分から解放される時間であるということに気が付き、書くことをやめようとする。ここで先生は素直に解放されるためと言うが、さらに田井中が100人に1人レベルの才能があり、やっていける可能性があるとも言う。そして才能があるがちゃんとやらない人のことをとやかく言う。ちゃんととは人の目に晒したりして作品をよりよくする努力のことみたいである。ちょっとでも才能があるやつはたくさんいるが、そのちゃんとする、という行為をしない人が多い、そんなことを言って先生は嘆いていた。

この田井中のとりあえずやりきることと、先生のいう人の目を気にするという両観点は何かを作る上でとても重要と思う。自分ができると思って一心不乱に何かをやっているとそれを良くするために人の目にどううつるかが大事であることが頭から抜けてしまう。でも何かを作るにあたってはこのブログみたいに完全に自分のためだけならいいが、発表や研究のように人の前に出して初めて完結するものはやっぱり人の目にどう映るかの客観的な視点が必要である。これは大学院に入って理解できたこと達の一つだ。ちなみに今回の日本血液学会のポスターや発表スライドは結構いいできだったと思うがそれは見せ方の勉強を結構したからだ。発表スライドは同期にも褒めてもらえた。

先生はロリコンであるというサガを背負っていることに葛藤し、そんな自分を否定せずに、かといって社会的に溶け込むことを決めた。ジョジョ4部の吉良が重なる。自分の性壁を理解し、慎重にコトをしながら生きていた吉良吉影、二木先生はコトはしないがそれを隠して世間にうまく、田井中からするとうますぎるほどに溶け込んでいた。

そして先生はクラスの前で田井中が賞に応募するとふっかける。それをきっかけに田井中はいじめられてしまうが、結局気になっていた小説を書くという行為を再開する。いじめの途中でなんと二木先生がロリコンであることを独白した音声がクラスの前で再生されてしまう。そして先生はそれを認め、一巻の終わりを覚悟したその時、田井中がその音声は先生に自分の小説を音読してもらった時のもので、本当のロリコンは自分だと嘘をつく。その辺で話は終わる。

田井中は結局先生に猛烈に憧れていたことに気が付く。普通じゃない自分を圧倒的な努力で普通にしている先生に憧れていた。でもそれって結局人の目を入れるということではないか。僕も自分がある程度客観視できるようになって楽になったし、意外と自分ができていることがわかるようになった。でもそれは客観視だけではなく、いろんな人と話したり、評価してもらったりしてわかるものなのだろう。今後田井中が二木先生に習い客観的な視点を入れつつ成長するであろうことを匂わす本書ははちゃめちゃな設定の割に感動させることに成功している。

関係ないけど褒められるってとても嬉しいことである。1年くらい前に、僕も教授からお前は臨床がうまい、と言われたことがあって今でも思い出すと嬉しい。なので僕もできるだけ他人のことを褒めようとしている。なかなかうまくいかないが、、、

結局のところ厨二病の高校生の成長譚であったこの「二木先生」、厨二病を主人公にして、その厨二病の心理をうまく描写できているのが胸熱な小説だった。

ちなみに雁字搦めは「がんじがらめ」と読む。がんじがらめ、と打つとでた。便利な世の中だ。

サロメって聞いてまずはニャロメが思い浮かんだが全く関係なかった。

またまた原田マハ、サロメを読んだ。

舞台はお決まりの1900年代、人々が食べる以外のために生き始めた時代。

サロメという聖書の一説にある、エロすなややこしい話を題材に、オスカーワイルドというハイセンスで時代に乗った、そしてゲイの劇作家がアレンジした話をめぐる物語。

サロメのあらすじは一回で聞いただけでは覚えられない。王様の娘のサロメ(おそらく、本当には名前はない?)が牢に入れられている預言者に恋をする。王様から迫られているサロメは王様に提案する。いい踊りができたらひとつ願い事を叶えてくれと。王様はもちろんokするしサロメはすごくていやらしい踊りをする。王様は満足し、願い事を聞くとサロメは恋をした預言者の首を持ってきてほしいと言う。当時、預言者殺しなんて考えただけでも大変なことだったみたいで、王様は面食らったが結局サロメに預言者の首を渡す。そこでサロメは首だけの預言者にキスをする。そんな夢のような話。

ワイルドのサロメを有名にしたのはその話の内容ではなく、オーブリーという挿絵作家であったという話。首だけの預言者にキスをするシーン含め何枚かの挿絵が凄まじいみたい。

でもそのオーブリーは結核で早く死んでる。その短い生涯ではサロメを通した大成功とワイルドに裏切られた悲しみがあるよーみたいな話。

語り手はオーブリーの姉のメイベル、彼女は弟の才能を信じていたし、時代的に男を立てることに従事していたし、かといって自分を諦めきれなくて女優として花開かせるために劇場主に体を許したりする。体を許すってなんかエロい。(直球)

ワイルドにはワイルドの人生があってそれは芸術を愛している生き方であるが結局は一人で死んでいく。

有名であろうサロメの話を全く知らなくても全編に何回か登場し、そして微妙に全編のプロットになっているところが読んでいて気持ちがよかった。あと、原田マハの小説大体においてやけど芸術っていいですねぇの精神がところどころにあって「オーブリーの絵はそんなすごいもんか、そしてワイルドの戯曲もすごいねんな−」と設定を信じ込ませるような文体である。

僕は芸術などの直接生きるのに必要性について、ないと思うけど、あると信じている。なのでその信じている部分を原田マハは応援してくれている気がして僕は好きだ。

ちなみにニャロメは文字は「」の3文字しか知らないらしい。(ウィキ調べ)

Iの悲劇、最後まで簑石が読めなかった。

米澤穂信の小説。昔に氷菓を読んでなんだかラノベ的な設定小説だなと思っていた。

なのでなんとなく、軽い上滑りな話かなと思いながら読み始めた。

今から思いっきりネタバレを書く。なぜなら僕のためのブログだから。

舞台は過疎で人が全くいなくなった村、簑石。そこに市肝入りのプロジェクトとして外から人を住まわせるIターンプロジェクトが始まる。産業のない田舎に家を残し去っていった住人とそこに住みたい人を繋ぎ、住ませる。住むにあたってのトラブルはまずは役所に相談し、対応する。そんな計画。

主人公はそこそこ優秀なやれやれ男子、万願寺。相棒はとにかく明るい新人女子、上司は何もしない系の課長、その3人チームの蘇り課が活躍し、Iターンプロジェクトに四苦八苦するお話である。

話は何人かの住人が簑石にやってきてはなんらかのトラブルで去っていくまでがセットで、それが章だっている。その中で主人公が奔走し、翻弄され、新人女子が適当で、課長がなぜか最後に出てきて締める。

田舎ののどかさを夢見てやってくる住人の夢は人それぞれで、現実とのギャップに対する対応も人それぞれである。その対応は少し胸がキュッとすることが多い。

ヘリコプターのラジコンの音にうんざりした小さな子供がいる3人家族は夜な夜な音楽を爆音で流して対応する。逆にその音楽にうんざりしてラジコン太郎は爆音家族の家に火をつける。その裏でもしかしたらその小さな子供はネグレクトなのかもしれない描写もある。

都会の汚染された空気で呼吸器系の疾患が悪くなり、引っ越してきた子供が、同じく引っ越してきた本好きのおじさんと仲良くなる。しかし冒険好きで動き回れるようになった少年はおじさんの家で本が関わる事故にあう。

不幸が重なった青年が妻と一緒にやってきた家には小さな仏像があった。その仏像はやや有名な人が彫ったもので、その存在を知ったちょっと強欲なおじさんが仏像による観光事業を試みる。しかし青年は不運が重なっていた中で会えた仏像に運命を感じ、次の所有者に渡すまで無事に管理することを決意していたため、強欲なおじさんには渡さない。としていたがうっかり盗まれてしまう。おじさんは鑑定に出したかっただけだが、うっかり盗まれたのは妻がおじさんに仏像を見学させた時だったようだ。青年は妻が盗られたことを自責せず、おじさんから取り返す方法として主人公達を巻き込んだ作戦に打って出る。

そんなこんなしているうちに結局新人女子と課長が実はIターンプロジェクトの成功を阻止するために動いていたことが最後にわかる。理由としてはそんなところにお金をかけるなら市民に対しての福利厚生などをしっかりするべきだ、という世知辛いものだ。

途中で主人公と都会でエンジニアで働いている弟の会話だけの章がある。そこでは弟が主人公に田舎の生活を支える税金が都会から出ており、そんな先のない場所での暮らしに意味があるのか、と問い詰めるシーンがある。

富の分配って考えれば考えるほど難しい。確かに生きるために金がいる。やりたいことがあれば余計に金がいる。そんな時に自分にとっては努力していないように見える人たちにそれに見合っていないお金が流れているのをみるととてもやるせなくなる。しかしそのようなある程度の補償がないとおそらく生活のために犯罪をしなければいけない人達が出てくるだろうし、その補償で回っている経済も止まってしまうだろうし、必要なのだろう。

ここでTwitterで見つけた悲しいツイートを紹介しよう。

彼が留学するかはわからない。留学は結局いろんな運がないとできない。それに向けて、うまくいってることもあって、一方でうまくいっていないこともあって、それら含んで自分なりに努力しているだろう。マルチタスクが苦手だったが少しずつ色々しているらしい。突き抜けるためには一本集中!パターンと悩むこともあるけど、目標は突き抜けることではなく、進むことなのでこのままでよしとしましょうなんて言いながら。

この主人公は優秀で、出世を目指している。しかしなんだかんだ人が好きで、人の役に立つ役所仕事に誇りを持っている。だからIターンプロジェクトに参加した変な人たちにやれやれ言いながら対応する。でも最後に一緒に働いていた二人は別方向を向いていたことを知る。

主人公はその人それぞれのそれなりの現実と折り合いをつけた、しかしその中でもできるだけ希望、というか夢を追える生活を提供しようともがく。でも新人女子と課長はその田舎での夢を消す方向に細工をし続けていた。どちらも正義なだけにとても悲しい。僕はどちらかというと夢見がちで、その夢を応援してほしいし、夢を応援したいと思っているので主人公側であるが、現実的には新人女子達の考え方も必要とわかっている。この小説はなかなかいい軸の話であった。

結局簑石はなんて読むかわからないし、今回もコピペしたのだが、米澤穂信の本はこれから読んでいこうかと思った、なんなら米澤穂信もコピペだ。

そういえば今日「生協」という字が書けなかった。留学とかお金とかそんなレベルじゃない。あと、設定小説って何?

ASH22に落ちた話とJSH2022の準備をしている話

最近の身の上話を備忘録的に書いていく。

2022年9月30日の朝にASHから不採用のメールがきた。

3年前の同じくらいの時期に採択の通知メールがきた。その時は急性期の市中病院でたくさんの患者を見ながらの通知で舞い上がったし、今回も舞い上がりたい気持ちがとても強かった。

しかも、その1週間くらい前に後輩に不採用の通知が来たと聞いていたので、採用されているのではないかという期待が大きくなっていた。3年前はまず不採用者にメールが来て、その後に採用者にメールが来る流れだったからだ。でも今年は先輩が採用されており、その通知メールが同じ日時であったことからおそらく同時の通知メール送信になったのであろう。その方がイベント性もあるしいいと思う。

実はちょっと長いスパンの計画から始まった研究であり、その話を記しておこうと思う。

計画は今年の2月くらいに思いついた。臨床研究論文をASHを経て書く、というものだった。

まずは大学病院の50例くらいを使って、今年の4月に抄録の締め切りがあった日本血液学会に演題を提出した。テーマはほぼ同じコホートを使った少し切り口の違う研究2つだった。教授からこれらをパイロットスタディとして大学関連施設6施設から症例を集める多施設共同研究を計画する許可をもらった。我々の教授は若いということもあってか僕らの提案には厳しい目を持ちながらであるが寛容である。見習いたいものだ。同期とはちゃん呼びしている。

多施設での臨床研究を実施するのは今回が2回目であり、結局症例のデータは自分で集めるのが早いと痛感していたので、今回もそのつもりであった。しかしおそらく300弱の症例になるので一人で集めるのは大変だし、集計時の計算のミスの危険性もある。ということで同じコホートで違う角度の研究を同時にできるというメリットつきで一緒に研究をする人を探した。ありがたく、後輩のI君が手を上げてくれた。大学院1年目で、臨床研究の経験はないが、そんなことはどうでもいいくらい、優秀で人当たりが良い後輩である。逆に彼に僕と研究してよかったと思ってもらえるよう意識しなければ、と焦った。気がする。とりあえずスピード感を持って、具体的に前に物事を進めていくということを意識した。つまり相談されたことはできるだけ早く返し、具体的な改善点を添えるようにした。スピード感を持ってってなんだか政治家みたいだ。

理想の先輩ないしは上司像、というのが今の僕にはある。自分の興味あること(今で言うと研究)を現役でたくさんしていて、一緒にするとなればとりあえず前に進めてくれる人、である。昔臨床研究のさわりを教えてくれた先生や今の教授がモデルであるが、僕はとてもそういう接し方をしてもらってとても得をしたし、みんなに得をしてもらいたいと思って心がけている。間話。

I君と一緒に研究するとなってからはコソコソ相談→教授にお伺い→実施→コソコソ相談→教授にお伺い→実施、という感じで計画立案、各施設へのお願いの手紙、倫理委員会、データ採取などを進めていった。そして7月くらいには3施設から症例が既に集まり、そのコホートで8月に締め切りがあるASHへ提出した。

100例くらいのコホートで、2つの項目を使って中央値のOSが8ヶ月と26ヶ月の2群に分けれる、というような研究とした。実はその2つは機械学習を使ってOSの期間の予測寄与が高いものを検索して選んだ。機械学習については2021年の秋にプログラミングから勉強し始めたもので、どこにつながるかはまだわからないが、気合を入れればある程度のことはできる、ところまでできるようになったと思う。ちなみに今年の日本血液学会(JSH2022)では機械学習を使用した演題は5題程度であり、世間での流行り方や、その有用性を考えるとまだ血液内科では先取りできているのではないかと思っている。

そんなこんなでASHへ提出したくらいに日本血液学会に出した演題がoralとposterで採択となったという通知が来た。今までならスライド作成などは直近まで手をかけないが、今回は3月くらいからの計画ということもあってか9月の中旬にはある程度完成させた。最近研究カンファも先に先に準備できるようになった。人は30過ぎても成長できるのだなと実感している。

ポスターの方はバラバラのスライドをA4に印刷し、現地で貼ろうと思っていたところ、教授から「おそらくその形式の人は20人に1人くらいやし、惨めで胸がキュッとしてしまうと思うからお勧めしない」と言われ変更した。しかし作ってみるとなかなかいい感じのものができた。

個人的にはこのグラフィカルサマリ(そんな言葉があるか知らないが)が気に入っている。

これらの研究は残り施設から症例データを集めて論文にする予定である。実は大学院生を対象とした論文賞と海外学会発表賞があって、残りの大学院生生活で頑張ってみたいなと思っている。遊ぶ金欲しさである。

この計画はベッド持ちの大学院2年生の年度末に作ったものである。その時分は基礎研究の実験とベッドの仕事でややパンク状態であり、とてもしんどかった。思い出すと動悸がする、気がする。そんなしんどい時に、未来に楽しみを作ることで心の平安を保とうとして作ったものであるのだ。大学の症例をパイロットスタディとして日本血液学会へ提出し、それをもとに他施設共同研究にして症例100以上で有意差が出れば採択されるという噂のASHに出して、パンデミックがどうなっているかわからないがアメリカへ行って、という楽しみを作ることで乗り越えようとして作った計画だったのである。結局ASHの採択はなかったが、この4月からのベッドフリー期間にメリハリをつけて生活することができた。メリハリというか楽しみか。

結局ASHでの採択はなかったが、I君との相談は楽しいし、研究を完成させる楽しみもできた。さらに僕は研究することが好きなのかなと改めて感じることができている。あの時、しんどい時にあえてやることを増やしてまで楽しみをとる、と踏ん張った過去の自分を褒めてあげようと思う。