村上龍のmissingを読んだ。
内容をうまく説明できないそうにない小説だ。
https://www.shinchosha.co.jp/book/393402/
新潮社の紹介ページにいくつか解説が載っていて、みんなうまく説明している。このリンクを貼ってもう今日はお終いにしようかなと思ったが、このブログの目的は未来の僕に向かって、今僕がどんなことを感じているかを残すことなのでやっぱり頑張って説明してみようと思う。
主人公は村上龍本人と思しき作家である。ホテルで生活できるほどに作家として成功している中年男性である。その作家には時折3本の光が現れてそこに映し出される空想(幻影?)に囚われてしまう癖がある、という設定で物語は進む。最初はその空想の中に若い女性や無くなったお気に入りのフレンチバルなどが出てくるが、途中から母親の生い立ちや作者の幼少期のエピソードが作家目線と母親目線を織り混ぜた形で出てくる。
その空想の中で作家はなんとか現実に帰りたいと苦戦するが、幻想がとめどなく流れる。母親のナレーションで小さい頃の自分のエピソードが現れたりする。暗い道で、今の居場所があの世かこの世か気になっていたことであったり、積み木で小さな王国を作って王様になったのちにその王国を壊したことであったり、人の話を聞くことを覚えて社会でうまくいくことを見つけた、といったエピソードだ。そして母親のエピソードとして朝鮮から戦後に帰ってきた話、父親と結婚した話なども出てくる。徐々に失っているのはその時に感じた感情であったり、母親とのつながりであることがなんとなくわかってくる。このなんとなくがとてもうまくて、あるエピソード、例えば交通事故などである時点からプッツリとなくなる、とかではなく本当に徐々になくなっていく。あの時と今は違う、しかし自分という存在で繋がっているので全く違うわけではない、でもやっぱり自分も含めて変わっていて決定的にその感情であったりを失っている。そして今も全ての何かが失われている、という気持ちになる。
描写は幻想的で、現実味があるものではないからか、本当に徐々にそのような気づきが出てくる。ふわふわしながら気が付くといろんなことが変わっている感覚。昔に限りなく透明に近いブルーを読んだ時に同じようなふわふわした気持ちになったのを思い出す。あの頃は村上春樹にハマっていて、同じ苗字の有名な作家の小説でも読もうとして選んだのが限りなく透明に近いブルーだった。読んだ後になんだか現実に地がついてないふわふわ感が似ているが、書かれた時代が違うのか、いや書いている人が違うので当たり前だが村上春樹とは違うんだなという印象を持った。感想が浅いな。確か大学2年生くらいだったと思うが、今はその頃に他に何を考えていたかなどは全く思い出せない。なんなら大学2年生くらいだったかもあやふやだ。これもmissinngということなのだろうか。
10年後にふとmissingを思い出した時に今考えていることを思い出せるように少し今について書き残しておく。
今は大学院3年生、ベッドフリーになって半年を過ぎた11月14日の月曜日。ある思いつきで当直を増やしたいる。その当直のついでにこの文章を書いている。自分のやりたいことの形が定まりつつあり、いろいろ準備している。一方で具体的には全く決まっていない。過程を楽しんでいるといったところ。ちなみに家庭も楽しんでいるがうまくいかないことも多い。
大事にしたいのは家族と後輩、そして未来のある人たちを応援したい、という自分の気持ち。少し違うか。全ての人に平等に未来はあるので正確にいうとチャレンジしようとしている人を応援したい、それに自分が入っているのだろう。自分においてチャレンジといっても数年間のうちでしたいことはあるが、10年後となるとない。でも今までもそんな先のことまで考えたことはなかったので走りながら考えるしかないかなとも思っている。
このmissingを読みながら作家自身のエピソードでは自分の小さな頃から今までの変遷を、母親のエピソードでは自分と母親の関係が頭に浮かんでいた。今の自分の人格形成には父親の影響が強かったし自分も似たような大人になっていくのだろうと思っていたが、大人になると母親の存在はやはり大きく、僕の人格には母親も大きく入り込んでいる気がする。男の子である僕は結局マザコンなのかな、とも思う。具体的には、と考えてみたがこれもまた言語化が難しい。このブログを再開して自分にはまだ言語化がうまくできない部分が多いということに気付かされる。あと、タイピングが早くなっていることに最近気がついた。タイピングが遅い自分をmissingということか。
お後がよろしいようで。