アスペルガーは不便だ、世の中は便利になっているけど。そんなアスペルガーはいいものだ。便利だけが全てじゃない。

長いタイトルは熱い小説を読んだから。

物語は空気が読めない、普通がわからないアスペの高校生、田井中とロリコンであることを隠して生きている教師、二木先生の話。

この高校生の、他人と違う感性があることへの妙プライド、変に他人を意識してしまう過剰な自意識、文字に色がついて見えるちゃんとした自閉症感、過集中の癖、とても共感ができてしまう。作者はおそらくちゃんとしたアスペルガーか、とても勉強したかのどちらかであろう。それかどちらもか。

僕はどうやら軽度のアスペらしい。そしておそらくADHDもある。行間は全く読めないし、いわゆる言葉通りしかなかなか意味がとらえられない。不注意が半端ない。ただし、世間一般のイメージにある他人に興味がないあのアスペなわけではない。自分で言うのは恥ずかしいが、僕はとても人間味がありいい感じである。

ここでいういい感じの人感は、うまく自分を乗りこなしている感といった方がいいかもしれない。人からのいい感じの像ではなく、自分から見てのいい感じの像である。陰キャではある。しかしこのいい感じの人感はここ10年ちょっとでやっと身につけることができたように思う。それより前はこの田井中のように変に尖っていて、変に自意識過剰で自意識に雁字搦めだったと思う。周りとは違う気がするが、何かすごいわけではない。一方ですごくなるための努力はしていない。というか何をしたらいいかわからない。とりあえずそれなりに勉強はしていたが、大学受験では浪人した。本当にそれなりであったようだ。浪人生の一年は結構がんばって勉強したように思う。医学部に入れた。それまであった何者かになりたいと焦りがなくなっていった気がする。

大学入ったあたりからは医学部に入れたという自信も持てたからか、周りを見る余裕ができたからか、自分に何ができて、何ができなくて、社会的にはどのような立ち位置になれそうなのか、そして自分は何がしたいのか、というのが徐々にわかり始めた。そしてそれなりにうまく立ち振る舞えるようになった。立ち振る舞うと言うと他人に対してみたいにであるが、実際は自分に対してだ。自分に対して納得ができるような行動ができるようになった。それまでの何かにはなりたいが、何にもなれていない、でも何になりたいかわからないので何をしたらいいかわからない、というモラトリアムの悩みが徐々に薄れていった。これが思春期から青年期への成長なのだろう。

そんな成長をした僕からすると、田井中の苦しい感じ、顔が赤くなる感じがなんとも懐かしく、その後の成長を予感させるフラグがとても胸が熱くなる。

作中で高校生の田井中は偶然、美術の先生である二木先生がちゃんとしたロリコンであることを知る。しかもロリ専門のエロ漫画家であることも知る。最初は先生が書いている雑誌を万引きして読んでいたのだが、その万引きがバレて身元引き取り人として二木先生を指名するところから話は動き出す。

田井中は先生がロリコンである証拠があると脅し、先生に何か要求をしようとする。しかしうまく要求が思いつかない。先生は田井中が普通とは違うことに誇りを持っている反面、それを重荷に思っているという田井中の矛盾を煽り、何か特別なものがあるのかと問いただす。この指摘がかなり的確で、田井中をうまく説明できている。なんなら僕を説明されてようでこそばゆかった。

田井中は実は物語を考えることが好きで、勢いから短編小説を書き上げる。この書き上げるときの過集中感がまさにアスペである。漫画家ということもあってか、先生は作品を作るということについて理解が深く、その小説を添削し、直してこいという。書いている最中に田井中はこれが自分がやりたかったことかもしれないという予感を持つが、先生にとって自分が小説を書くその時間は、自分から解放される時間であるということに気が付き、書くことをやめようとする。ここで先生は素直に解放されるためと言うが、さらに田井中が100人に1人レベルの才能があり、やっていける可能性があるとも言う。そして才能があるがちゃんとやらない人のことをとやかく言う。ちゃんととは人の目に晒したりして作品をよりよくする努力のことみたいである。ちょっとでも才能があるやつはたくさんいるが、そのちゃんとする、という行為をしない人が多い、そんなことを言って先生は嘆いていた。

この田井中のとりあえずやりきることと、先生のいう人の目を気にするという両観点は何かを作る上でとても重要と思う。自分ができると思って一心不乱に何かをやっているとそれを良くするために人の目にどううつるかが大事であることが頭から抜けてしまう。でも何かを作るにあたってはこのブログみたいに完全に自分のためだけならいいが、発表や研究のように人の前に出して初めて完結するものはやっぱり人の目にどう映るかの客観的な視点が必要である。これは大学院に入って理解できたこと達の一つだ。ちなみに今回の日本血液学会のポスターや発表スライドは結構いいできだったと思うがそれは見せ方の勉強を結構したからだ。発表スライドは同期にも褒めてもらえた。

先生はロリコンであるというサガを背負っていることに葛藤し、そんな自分を否定せずに、かといって社会的に溶け込むことを決めた。ジョジョ4部の吉良が重なる。自分の性壁を理解し、慎重にコトをしながら生きていた吉良吉影、二木先生はコトはしないがそれを隠して世間にうまく、田井中からするとうますぎるほどに溶け込んでいた。

そして先生はクラスの前で田井中が賞に応募するとふっかける。それをきっかけに田井中はいじめられてしまうが、結局気になっていた小説を書くという行為を再開する。いじめの途中でなんと二木先生がロリコンであることを独白した音声がクラスの前で再生されてしまう。そして先生はそれを認め、一巻の終わりを覚悟したその時、田井中がその音声は先生に自分の小説を音読してもらった時のもので、本当のロリコンは自分だと嘘をつく。その辺で話は終わる。

田井中は結局先生に猛烈に憧れていたことに気が付く。普通じゃない自分を圧倒的な努力で普通にしている先生に憧れていた。でもそれって結局人の目を入れるということではないか。僕も自分がある程度客観視できるようになって楽になったし、意外と自分ができていることがわかるようになった。でもそれは客観視だけではなく、いろんな人と話したり、評価してもらったりしてわかるものなのだろう。今後田井中が二木先生に習い客観的な視点を入れつつ成長するであろうことを匂わす本書ははちゃめちゃな設定の割に感動させることに成功している。

関係ないけど褒められるってとても嬉しいことである。1年くらい前に、僕も教授からお前は臨床がうまい、と言われたことがあって今でも思い出すと嬉しい。なので僕もできるだけ他人のことを褒めようとしている。なかなかうまくいかないが、、、

結局のところ厨二病の高校生の成長譚であったこの「二木先生」、厨二病を主人公にして、その厨二病の心理をうまく描写できているのが胸熱な小説だった。

ちなみに雁字搦めは「がんじがらめ」と読む。がんじがらめ、と打つとでた。便利な世の中だ。